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教師紹介

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みなみセンセ(南 芳貴 教室長)

 

南先生の人生物語

南 芳貴(みなみ よしたか)です!

子ども達と一緒にいると・・・どんどん引き込まれるんですよ。
岡教の生徒は、みんな自分の息子や娘に思えますね。

お父さんや、お母さんをされている方々なら、きっと分かって下さると思うんですが、あるじゃないですか、
「(なんとなーく)・・・今日はお団子でも買っていってやるかぁ」
ていう感覚。

子どもを喜ばせたくなって、ついついお菓子買っちゃったり、ゲームや漫画を買っちゃったり・・・みたいな。

「今日あたしの誕生日だよ~」って言われて、たけのこの里を渡しました。塾内は原則飲食禁止なのにね。
それ見た小6の生徒達がうらやましがってました。それがあるから、普段はそんなことしないようにしてますけど。

あと、休みの日に、生徒兄弟を連れて、お昼をご馳走したり。
その時、ふと、「自分の父親がしてくれていたことは、こういうことか・・・」って気づきました。
自分も、我が子を愛する感覚に、少し近づけたんです。
味を占めた生徒の妹が、「また行きたい!」って。
あまり、早い内に美味しいもの食べさせちゃダメですね。
舌がぜいたくになっちゃいます。

私は生徒と一緒にいることが生きがいです。
授業は一つの手段です。生徒とのコミュニケーションで。
強力な手段です。ボクの最大の武器ですね。
そう思っています。
だって、勉強で困っているから、塾に生徒が来ますよね。
それを解決できますから。
絶対嬉しいでしょ。生徒は。

だから、生徒の勉強の悩みを解決できないのは、ボクにとって最悪です。
必死になりますよ。
どんどんお金も、時間も、労力もつぎ込みますね。
必死になって、ここまで来ました。

明らかに自分の力不足で、生徒を困らせたら、ずっと尾を引きます。
ずっと心にわだかまりを残したままになる。
先生になりたてのことは、毎日、そんな感じでした。ふとしたときに、ズーンと、なってました。
あの時こんな指導していれば、こうなったかなぁ、なったよなぁ・・・って、頭の中で、何度も何度も、その場面をやり直そうとするんです。

今でも、そのクセはあります。けど、30歳になって、やっと、そこから抜け出せてきた感覚です。
今なら、生徒のどんな質問にも、自分なりの答えを返せます。

以前は、生徒の質問が怖いな って時もありました。
今は、まず、ないです。
小学生、中学生、高校生、どこから質問来ても、生徒を納得させられます。
それだけ、自分が努力してきた・・・訳ではないです。
それだけ、生徒が、ボクを頼ってくれたから。
一緒にいると、生徒は、頼ってくれるんです。

だから、無理にでも「なんとかしたくなるんだ。」
・・・これがボクの想いです。

少し、私の来歴も付しておきますね。
(少し所ではありません。大量です。長文注意。)
1986年2月17日生。
北海道生まれ、栃木育ち。

小学生は、近所が、身なりの整った、わりとお坊ちゃんお嬢ちゃんな子どもが多かった。
その中で、ただ一人、白いランニングシャツに、年中短パンなボク。しかも、鼻炎持ちで、年中シャツの端っこが鼻水でデロデロになっている。正に昭和時代の田舎少年。母が、北海道の農家で育ったもので・・・
「小学生時代にやり残したことは、何一つ、ない!」と豪語できるくらい、やりたい放題な毎日。
教室で、はさみにヒモ付けて、ブンブン振り回して、先生に怒られてました。

中学生は、さんざんやりたい放題したツケが回って、集団イジメを受けることに。
イジメは・・・最低ですよ。ずっと最悪な気持ちで、学校を過ごしてましたから。

【先生のイジメ対処法】
でも、おかげで、イジメられる生徒の気持ちが、痛いほど分かる先生になれた。よかった。
若い頃はたくさん研究しました。教室内でイジメの発端を見抜く方法や、イジメが起こったときに、徹底的にツブす方法。
そして、役に立ちませんでしたね。本で覚えたことは。
実際に生徒と直に向き合って、一緒に悩んで、さらに一人でいるときにも悩んで、考えて、先輩先生に相談して、また考えて・・・そして生徒とまた向き合う。その繰り返しの内に、だんだんと、解消できました。
発端はいつだって、「取るに足らないこと」。
原因はいつだって、「単なる誤解、すれ違い」。
コレでした。
誤解やすれ違いが原因なんだから、当事者の話を、一緒くたに聴いては、決して解決できません。
「一人一人、別々に話を聴く。親身になって共感する。その後、一歩引いて全体をまとめる。」
コレで解消できます!

最終手段は、爆発です。
先生の怒りが爆発。コレを、
普段、ぜんぜん怒らない、ニコニコした先生が、
突如として、
教室外まで轟くような大声で、
突き刺すような視線で、
ものの数分で、
後に尾を引かず、
行います。台風一過。
コレで、生徒は2度としなくなります。

心の一部は冷静さを保ちます。
何度もできません。1年に1度あるかないかです。
怒られた生徒には、その後、何事もなかったかのように普通に接します。


やがて、学年が変わり、クラスが変わって、イジメが落ち着いた頃に、変化が訪れました。
身長が伸び、勉強に集中できるようになった。
担任の先生から、「身長も、成績も、どんどん伸びてるな。」って言われ、実感しました。
2年生の学年末テストから、積極的に勉強するようになっていました。
その時は、一度に成績順位が80番も上がった。
志望校の願書を出した後も、どんどん成績は伸びて、余裕で志望校に合格。
最終的に、栃木県内で一番偏差値の高い高校にもギリギリ受かるくらいの点数をとれました。
合格しても、「知ってた。」みたいな、生意気少年でした。


高校生は超楽しかった。

大好きな、理科と数学が、毎日2時間以上受けられる、「数理科学科」に入学し、そこで、勉強に明け暮れました。
1年生の入学したての頃、もう放課後自習しようとしてました。
でも、図書室の3年生の雰囲気に圧倒され、学校ではできなかった・・・
部活動を夜遅くまでやりながら、家に帰って、勉強してました。
その甲斐あって、成績は常にトップクラス・・・でもなかった。
2年生は、油断して、かなり落ち込んでいました。
でも・・・
3年生の時、念願のクラス1番。・・・最高の喜びでしたね。
嬉しかったな~
1番になって、少し大人になれた気がします。
それまでは、勉強のことしか頭になくて、成績が自分より低い人たちのことは、視野に入らない状態だった。
馬鹿にするわけでもないけど、興味も無い、機械的な高校生だった。
それが、1番になったのに、あまりエラくなった気がしなくて、なぜだろう、と周りを見るようになった。
・・・結論として、みんな「1番を持ってるな」と。
自分は勉強が1番だったけど、サッカーはすごく下手くそ。
でもあいつは、サッカーさせると、すげぇな!カッコいいな!!っていうのが、いろんな所であって。
ボクシングの支部チャンピオンがいたり。彼は、減量のため、毎回お弁当が、トマト一個なんですよ!
心から「すげぇな・・・」って感心してました。
それから、誰ともすぐに仲良くなれる、明るくて面白い生徒。
彼がいると、クラスの雰囲気が、とっても明るくなる。
これも、自分にない裁量でした。
クラスメートが、自分の見識の狭さに、気づかせてくれた。
少し成長できました。

大学生は、中途半端な感じ。
自分では、環境問題の研究者になろうと決めていたけど、心からなりたいわけでもなくて。
成績だけは良かったけど、身になっていなかった。
たしか成績は、S(90点以上)が6~7割くらいあった気がする。
それで、満足していた。成績自体は良くても、
今思うと、ぜんぜん役立っていないですね。
一番役立ったのは、父の勧めで「とりあえず」とっておいた教員免許でした。
後は、高校と比較にならないくらい、いろんな人と知り合えたことかな。
大学の講義も、印象に残っている授業や先生がたくさん。
自分の見識は、確かに一回り大きくなった。
そしてもちろん就職活動はせず、大学院へ。

大学院は、自分にとっての、社会人経験を積んだ場所。
研究は、調査がとても楽しくて・・・
でも、機器による試料分析は、超ハードでした。
機器の前で連続10時間労働は当たり前。
お弁当を2つ買ってきて、昼ご飯と、夕食を、機械操作の合間に食べてました。

そして、メチャ厳しい先生の機器を使うことになったときが最大の恐怖でした。
真冬、夜中の12時に呼び出され、そこから先輩と交代に仮眠をとりながら、試料の分析。
超精密な機器だったので、耳かきの10分の一くらいの薬さじで、薬品を0.01mg単位でカプセルに詰める過酷な作業。
マスクして、僅かな汚染もないように、ゴム手袋にピンセットで、爪楊枝の先みたいな金属カプセルを作り続ける。
水を1滴も飲まず、8時間ぶっ通しでその作業してました。
最初は、緊張で手が震えて、うまく操作できませんでした。
操作ミスによる失敗よりも、先生の方が怖かった。
8時間ぶっ通し作業の直後は、体がうまく動かなかった。

これが、毎日続くのが、「過労死する」会社の労働環境なのか・・・
って実感。ボクは、毎日じゃなくてよかった・・・(ほっ)
この経験があってからは、大抵のつらい作業ができてしまう体になりました。
辛さは同じように辛く感じます。麻痺するわけではない。
でも、体が「できちゃう」んです。

若いときの苦労は買ってでもせよ

結局、調査は楽しかったけど、
研究はハードで、ちっともおもしろみを感じない・・・
これは、一生研究者として生きていくのは無理だ。
と悟りました。

でも、やりたいことも特に見つからない。
結局、自分のやりたいことを見つけてくれたのは、周りの人達でした。
自分の進路を自分で決めていないんです。
おいおい・・・
結果的には、これで大成功だった。

自分の事って、自分ではよく見えていなくて、
意外と、自分と親しい人達の方が、よく分かっている事があるんですね。
自分が向いている仕事を、片っ端から、いろんな人に相談して回ったんです。
大学院でできた友人、研究室の同僚、先輩、後輩にまで。
さらには、高校時代の友人、親、さすがに研究室の教授には相談できませんでしたが。
でも、これでハッキリしました。
みんなの意見はバラバラのようでしたが、
職種は違えど、共通点は明らか。
子ども相手」そして「教える仕事
そう、こうして学校の先生を目指すことになりました・・・

中学校非常勤(業界1年目)
つづく

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